なぜ南房総が万祝発祥の地なの?

万祝展示 館山市立博物館分館

「万祝」と書いて「まいわい」と読みます。
万祝は江戸時代から戦前にかけて漁師の間で広まった大漁を祝う晴れ着のこと。
漁師の勇壮果敢な生き様を表すかのようなカラフルでシンプルなデザインが施され、大漁の年の翌年の正月、神社仏閣への参詣中また網元の家で三日三晩の酒盛りを酌み交わす時に着られました。
当時太平洋沿岸一帯で見られたこの万祝ですが、房総半島が発祥の地であるといわれています。一説には南房総が発祥という話もありますが、その根拠はあるのでしょうか。追ってみましょう。

(2012/08掲載:H)

漁民芸術としての万祝

大漁の祝い着 万祝

漁民芸術とは文字通り漁師によって作られた作品に対して使われる言葉です。漁師はもちろん、他の芸術作品のように「作品」を意図して身の回りのものを作っていたわけではありません。しかし長らく営まれてきた漁生活における様々な工夫や、精魂をこめて作られた工作物のうちには、後世の人々に美を感じさせるような内容豊かなものも数多く含まれているんです。現在ではこうした漁師による創作物は総じて漁民芸術と呼ばれています。
その中でも万祝は、海に生きる人々の美意識が凝縮された代表的な作品として注目されてきました。

万祝の始まり

『大漁絵馬』 白浜海洋美術館蔵

万祝という大漁半纏が生まれ、正月の行事として定着した正確な年代は定かではありませんが、文化9年(1812)『浦方取締書』にその記述があることから、おおよそ江戸末期に万祝風俗が発生したと考えられています。
この古文書が書かれた時期、房総はイワシ漁において未曾有の好景気を迎えていたことが知られており、イワシ成金と呼ばれる有力な網元が数多く登場していました。彼らの資本はさながら10万石クラスの大名に比肩するほどであったと言われ、江戸から文化人を招いては逗留させ、贅沢三昧の毎日を送っていたのです。

ところで、万祝といえば藍染による木綿の羽織といった観点も特徴的ですが、なんといってもその大胆で豪快なデザインが作品の肝をなしているといえます。実は、このデザインが描かれた歴史的な背景が万祝成立に大きく関わっています。

新天地を求めた江戸の絵師たち

「江戸の絵師、特に浮世絵以外の凋落してしまった狩野派の末流の絵師にとっては、生活の糧を求めるべく、このような俄の富裕階級を訪れるようになった。知識階級に属するこのような絵師が、網元のところに滞在しながら、江戸の文化を吹き込みながら軸物・屏風絵を描き、或は村の幟や社寺の絵馬を描く。…やがて、紺屋に頼まれて着物の裾にデザインを考案、図案上背紋を描くようになった。」(『黒潮が育てた漁民芸術の華―万祝』仁科又亮、小島孝夫他著/岩崎美術社1992年p19)

狩野内膳『南蛮屏風』神戸市立博物館蔵

江戸末期、明治維新の流れと共に日本美術は大きな動揺のなかにありました。その大きな変化の一つが引用のうちにある狩野派の没落です。プロの専門絵師集団として400年もの歴史を貫いてきた狩野派でしたが、封建社会システムと歩調を合わせる形で発展を遂げてきたこの一派は、江戸幕府の崩壊とともに庇護者を失い路頭に迷うこととなりました(参考『御用絵師 狩野家の血と力』松木寛著/講談社1994年)。
幕末の動乱の中職を追われた江戸の絵師の多くは、浮世絵を取り入れたり旅に出て絵を描きながら地方を転々とするなど、時代の変革期にあって自ら道を切り拓く必要性に迫られます。そんな時に現れたのが南房総から新鮮な魚を届ける早船だったのです。

当時地引網によって無尽蔵にイワシが獲れた中には、もちろん他の魚も含まれていました。特に南房総では高級な魚であるタイがよく打ち上げられ、これらは地元で消費されるイワシと異なり房州船のスピードを生かして海路で江戸の港に届けられるようになりました。
ここにおいて、新天地を求める絵師と江戸の文化に多大な関心を寄せる豊かな網元との出会いが生まれたのです。イワシ漁の全盛を極めた船頭は、この大漁に誇りと感謝の意味を込めて江戸の「祭り」に影響を受けたお祝いを催そうと企画し、江戸から招待した絵師にお祝いの絵を発注することとなりました。

木綿や藍の画期的肥料「干鰯」と黒潮の道

 またそもそも、漁民芸術として万祝という大漁半纏が房総半島で華々しく誕生した背景には、その生地となる木綿や藍染の染料である藍玉がイワシそのものと深い関わりをもっていることにありました。

「…綿や藍の栽培に欠くことのできなかった肥料が干鰯(ほしか)であった。干鰯はイワシを天日干ししたもので、肥効の良さに加え、大量生産や運搬の容易さによって、これらの栽培の増加に合わせて需要が急増していったのである。木綿業の発達が、藍生産、干鰯生産を波及的に発達させたのである。」(『黒潮が育てた漁民芸術の華―万祝』仁科又亮、小島孝夫他著/岩崎美術社1992年p155)

九十九里浜一面での干鰯作りの様子    館山市立博物館所蔵

イワシを天日に干した干鰯は、商品作物の生産が急増しつつあった江戸末期において従来の草肥や糞尿を中心とした施肥に代わる効率の良い肥料として大変重宝されたようです。この干鰯の登場によって作物の生産量は飛躍的に高まり、これと同時に万祝の原料である木綿と藍玉の生産量も急速に伸びていきます。
イワシが大漁に漁獲された房総地方においては運搬のコストなども相まって干鰯を利用する作物である木綿の生産が盛んに行われるようになりました。
また、それに加えて当時良質な藍玉の主産地であった徳島県の阿波地方から黒潮にのって藍玉が容易に届けられたことも黒潮の北限となる房総地方の万祝製作にとって有利な点だったといえるでしょう。

絵師がいて、木綿が生産され、良質な藍玉が黒潮で運ばれてくる。こうした条件が時代のなかで奇跡的に揃う瞬間、漁民芸術としての万祝が房総において華々しく開花したのです。

引き継がれる万祝の伝統と技術 鈴染 鈴木幸祐さん

それではここで万祝の制作工程について見てみましょう。万祝の伝統を継承されている数少ない染物屋さんである千葉県鴨川市の鈴木幸祐さんにお話をお聞きしました。

鴨川万祝染元 鈴染三代目 鈴木幸祐さん

1 注文による型紙製作
型紙に下絵を描き小刀で型を彫る

2 布地調整
染めやすくするため、布を精錬する

3 つもり・墨入れ
布の寸法をとり墨で印をつける

4 のり調整
もち米、米ぬか、塩、石灰をお湯でこねてのりをつくる

色差し作業

5 型付け(付出し)
布に型紙を置き、へらでのりをつける

6 色差し
顔料を大豆の呉汁でとき、色をつける

7 かため
色をさしたところに大豆の汁をつけ色を定着させる

地染め作業

8 のり伏せ
色をつけたところをのりで伏せる

9 地染め
アイガメに浸して染める

10 水元
水につけのりをとる

酸ばり作業

11 酸ばり
酸につける

12 仕上げ
人形などの目や口に筆をいれる
万祝の絵は、下絵となる型紙を作った上でそこに色を差し込んでいくようにして作られています。初期の万祝は、いかにもおめでたい模様ということで鶴亀松竹梅を描いたものが定番だったようですが、明治大正期に入ると流行や漁師の要望に応じて様々な絵が生まれてきたことが現存する下絵からわかっています。この工程にて江戸の絵師が活躍したのですね。
色の具材は植物である藍玉の顔料を用います。顔料によって染められている織物には他に沖縄の「紅型(びんがた)」がありますが、どちらも日光に強く、使えば使うほど色の深みが増すところに特徴があります。大豆の呉汁を使って色を定着させる7の工程に見られるように色の出し方にとことんこだわった染物といえるでしょう。

江戸末期からの伝統技術を代々受け継いできた鈴染三代目鈴木幸祐さんは、自然のものを用いて人の手で創り上げるこうした万祝の独特な色やデザインを絶やすことのないよう、現在これまでにはなかった新しいことにも目を向けられています。

万祝製作体験コーナー

一つは万祝制作を体験するコーナーを要望に応じて開設されていることです。全工程を行うことは当然できませんので、上の表における6番からの工程を体験者が行い、作ったものを自宅に持ち帰ることができます。万祝の製作が忙しくなると容易に開設することができませんが、お店以外で場所を用意できることを条件にご相談くださいとのことでした。

万祝の技術を応用したグッズ販売

また二つ目は、これまでの着物の万祝という形式だけでなく、Tシャツや帽子などより現代的で身近なものに万祝の技法を応用していくことです。万祝の色やデザインは、その誕生秘話もさることながら非常に強いインパクトをもっています。古き良き時代の象徴として博物館に飾っておくだけでは勿体無いとして、現在さまざまなニーズが生まれつつあり、そうしたニーズに応えてデザインなどを提供されているとのこと。万祝アートがワンポイント入っているだけで、とっても目立ちますよ!

萬祝染元 鈴染 http://www.awa.or.jp/home/suzusen/    

〒296-0001
千葉県鴨川市横渚620-1
TEL/FAX 04-7092-1531
e-mail  suzusen(@)awa.or.jp

万祝風俗の衰退

現在においても万祝という芸術は小規模ながら根強く残っていることを知ったところで、なぜ習俗としての万祝という文化が漁師の内に消滅してしまったのかに少し触れてみましょう。これには2つの理由があると考えられています。

①世界大戦によって数々の下絵や万祝そのものが消えてしまったこと。
②戦後イワシが長い期間全く獲れなかったこと。

上述した鈴染さんにも起こったことですが、戦時中万祝に関する多くの書類や下絵が焼失してしまったということです。また当時は極度の衣料不足でもあったので、万祝は着物の裏地や寝巻き、または布団などに急速に化けていきました。黒く染めて家を隠すための暗幕にしたというところもあります。
そしてもう一つが、イワシの極端な不漁です。戦時中の日本の食生活は米とイワシによって成り立っていたそうですが、戦争が終わって兵隊が帰ってくると突然イワシが全く取れなくなりました。この原因には当時たくさんの仮説が立てられましたが、1971年にイギリスのD・H・クッシングによって「加入乱獲」(大人になる前に獲ってしまうため次世代の資源が確保されず持続可能ではないこと)の結果であるとの説が提出された後、環境変化とあわせて検証が進んでいます。(参考『イワシと気候変動』川崎健著/岩波新書)
こうして各漁師家庭に保存されてきた万祝の伝統は戦争によって一斉に失われ、また折しも不漁が続くことで万祝を出すことも長い期間行われなくなってしまううちに、万祝を着るという習慣も消え去ってしまったのです。世の中は高度経済成長期に突入し、日本人のライフスタイルも大きく変化していく中、大漁の祝いもボーナスなどのご祝儀やジャンパーなどの物資に様変わりしていきました。

南房総が発祥だとする根拠はあるのか?

さて、万祝がどのようなものであるかその歴史と共に追ってきましたが、漁師芸術の華と呼ばれる所以についてご理解頂けたでしょうか。それではいよいよ謎の答えに迫っていきたいと思います。

柳和子さん

今回の謎について決定的な情報を提供してくれた方は、南房総市白浜町にある白浜海洋美術館名誉館長の柳和子さんです。
和子さんは若い頃東京で仕事をしておりましたが、夫である故柳八十一さんとともに白浜に旅行に出た時、海女の休む小屋にて万祝に出会います。そこでその美しさに衝撃を受けたご夫妻は、万祝が消滅しつつある当時の惨状をみてこれらを後世に残さねばと立ち上がり白浜へ移住しました。

蒐集された漁民芸術の数々

その後海洋民族の誇りとしての漁民芸術を蒐集するため全国を旅して回り、そこで集めた美術品をもとに1965年に白浜海洋美術館を開館。特に、漁師の生の声を聞きながらの旅を長年されてきた和子さんのお話は万祝の最後の語り部ではないかとの声も挙がるほど貴重なものです。

江戸末期房総半島にて生まれた万祝ですが、ここ館山の布良を発祥とする民謡安房節の一節にも次のように万祝が唄いこまれています。

「ハァ~ 鮪とらせて 万祝着せて 詣りやりたい 高塚へ
キッタマッキの帆前船 上はデッキですべくるよ」

館山では当時マグロ延縄漁という漁法によってマグロ漁も隆盛を極めていました。万祝風俗がイワシ漁からマグロ漁に伝わったのかどうかは定かではありませんが、すでに江戸末期には大漁を祝うために万祝を着る文化が始まっていたことがこの唄からわかります。
ただしこのような民謡は発生年代をほとんど同じくして房総半島の太平洋沿岸九十九里から銚子にかけても唄われており、こうした民謡や文献からはどこが発祥なのか判断することはできないのです。そこで柳和子さんに南房総の万祝の特徴についてお聞きしました。

白浜海洋美術館館内

「万祝が始まった頃の房総太平洋沿岸のイワシ漁の網元がどこも栄華を極めていたことは等しくいえることなのですが、南房総の漁師と他の銚子や九十九里の漁師とには一つ大きな違いがあるんです。それは万祝いの完成度にあります。
万祝に描かれた模様の動きや形、色の調子などを比較してみると一目瞭然なのですが、南房総の万祝は芸術としての価値が高い。下絵の型を彫る刀の線の勢いや色を出す顔料の馴染み方、色の鮮やかさなど、他の地域と明らかに質が異なっています。これはなぜだろうと調べてみるとわかってきたことがありました。」

300点にも及ぶ万祝コレクション

「実は、漁をする集団のあり方が全く違ったのです。銚子や九十九里にみられる漁師集団は、今で言う大企業のような感じで、とても大きな組織体系を作り上げていました。この組織を成り立たせていたのは、江戸からきた流れ者たちです。イワシ漁が儲かるという噂を聞いて当時江戸の貧しい者たちはこぞって銚子や九十九里を目指しました。こうして彼らを安く雇うことで大企業のような漁獲体制を整えていったのです。
それに対して南房総はどうかというと、こちらは親戚が集まって集団を作っていたのですね。血の繋がりのあるもの達なので、粗末な扱いはできません。
ここに南房総とその他の地域の万祝に見られる質の違いが見出されると考えられます。南房総の万祝の芸術的価値が高いわけは、それだけ万祝にお金をかけていたということです。親戚への感謝の気持ちを表現するものですから、船頭のプライドにも大きく関わってきますよね。どこよりも良い万祝を出そうと競い合っていたのではないでしょうか。」

美術館内で万祝グッズ販売もしています

同じ万祝でも見る人にはわかる違いがあるのですね。これまで何百何千もの万祝を見極めてきた柳和子さんならではのお話を頂戴しました。
また和子さんのお話によると、万祝製作初期の頃南房総から九十九里にかけて32件の染物屋があり、これらの染物師は当時九十九里海岸沿いの御宿にあった「阿波屋」にて修行した職人であったことが伝わっていることから、万祝の発祥の謎は今はなきこの「阿波屋」に秘められているのではないかとのヒントを頂きました。徳島、南房総の「阿波」と「安房」に関連した名前をもつこの染物屋、謎のベールに包まれて非常に奥ゆかしい雰囲気を醸し出しています。阿波屋について何かしら情報をお持ちの方は是非たてやまGENKIナビにお問い合わせください。
それにしても、漁師の集団のあり方が異なっていたというのは非常に興味深いものです。親戚が集まって形成されていた南房総の漁師たちに配られた万祝は、網元の粋も相まって芸術的な度合いをどんどん高めていきました。
これはつまり下絵を描く絵師や染物屋に豊かな網元から多くの報酬が与えられ、より良いものを創るように励ましたということでしょう。だからこそ万祝は祝い事に羽織る単なるファッションという枠を越えて美的な作品へと昇華することができたのです。
これ以降、南房総の万祝の噂は全国的に広がることになります。寄港した船などを経由して東北沿岸部などから南房総の染物屋に注文がきている形跡が多々見つかっており、こうしたことからも南房総の万祝の質の高さを伺い知ることができます。

 このことを基に筆者は、万祝そのものの発祥という謎ははっきりした根拠を見つけることはできないものの、芸術としての万祝の発祥を南房総に結論づけたいと思います。大漁の晴れ着としての万祝という習俗は消え去って久しい今日において、万祝は芸術的な価値をもって新たに迎え入れられる時代に入りました。この点南房総のイワシ漁網元たちによって万祝の美術的な価値が高められていたことは鑑賞を主とする後世の人々にとって揺るがない影響力を与え続けています。これからも勇壮な漁師の美意識が結集したこの万祝のデザインが、彼らの生き様を伝える象徴として、また日本が海洋民族として世界に誇る作品として継承されていくことを願います。
白浜海洋美術館

白浜海洋美術館

海の工芸美術  白浜海洋美術館

〒295-0102 千葉県南房総市白浜町白浜628-1
(野島崎灯台下)
tel/fax 0470-38-4551
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